海外での初ビジネスで大成功−ホテルはメリディアンのスイート、移動はリムジン、ゴルフ三昧の日々


大学時代。曲がりなりにも、授業を受け、課題をこなし、ディベートもどうにかこなせる様になったころ。私の父から仕事を手伝って欲しいというオファーの連絡がありました。それが、私の初めてのビジネス経験となる美術品バイヤーの仕事でした。

 

父は西洋骨董を扱う古美術商でした。アンティークの家具や時計、装飾品などを扱うのですが、特にメカニカルなアンティークである蓄音機やオルゴール、自動演奏楽器という1920年代に開発された自動演奏のバイオリンやピアノ(通常の自動演奏ではなく、ピアニストの鍵盤を叩く陰影までも再現するリプロデューシングピアノ)といった類の美術品に強い業者だったため、私はバイヤーとしてこうした古美術品を探し出し、価格交渉をし、更に買い付けた後は、発送の手続きを取り、ピアノの場合はアンティークの場合象牙の鍵盤である事が多い為、日本への輸入枠を取るための書類作成や手続き一切、更にその後は輸出手続きから通関用の書類を手配するところまでを一切請け負うビジネスを始めたのです。

 

このビジネスでは、父が顧客に売った利益の3割から5割を配当としてもらうという内容でした。

 

当時はインターネットなどありませんでしたから、海外の買い付け情報は現地にいる私が有利でした。このようなアンティークを扱う業者で現地駐在を置いている業者など当時はいませんでしたから、留学生という身分を最大限に利用してあらゆる手を尽くしてこの手の業者やコレクターとのコンタクトを取るべく、自宅に留守電機能の付いた専用電話回線を引き、FAXを入れました。その結果、日本のジャパンマネーの余韻がまだアメリカでも残っていましたから、アメリカ国内でコンタクトが取れる日本人バイヤーとして、その後様々な取引が舞い込む事になって行きます。

 

そして、私自身もちょっと面白い話が入れば電話を掛け、写真を送付してもらい、近場であれば車を飛ばして現地に即座に出かけるという事にしておりましたので、いつの間にか、業界でも名前が売れて、良いものがあれば直ぐに連絡が入るようになっていったのです。

 

因みに当時は携帯電話などもない時代ですから(丁度出始めたころで、日本では自動車電話が主流でした。携帯電話は重たいカバンのような大きさのもので、契約料金が3000ドルもしていた時代です。これは通話料は別の料金で、少し話をするだけでそれこそ何千円も掛かりました。その後基本料金が800ドル程度まで下がって初めて私の最初の携帯電話導入となりますが、それは数年先の話です)、連絡は全て固定電話。家に帰るとメッセージが残されていて、その電話にかけなおす。そして、情報は郵送ですから、届くまでに数日。更に、その写真を日本の父にも現像した写真をFEDEXで送って3日というわけで、早くても一週間の時間をやり取りを行っていました。今考えると随分とのんびりした世の中だったと思います。

 

しかし、商売としては大成功でした。

 

例えば、ビクターのクレデンザという蓄音機があるのですが、当時の日本での販売価格は250万円前後でした。父から、この蓄音機を探すように依頼されて、調査を開始すると、これが意外にも沢山あるのです。今でも覚えていますが、一番最初に仕入れたクレデンザはなんと500ドルでした。日本円換算で当時8万円だった(当時は$1=160円辺りでした)日本で250万している蓄音機が、アメリカでは8万円なのです。これには驚きました。これではぼろ儲けではないのか?と。

 

当然大きなものですから、通関コストや輸送コストが掛かります。それでも、東海岸から日本まで送っても2500ドルほどでしたから、合計3000ドル、50万弱という原価になります。つまり、一台200万もの利益が出ることになる。

 

もちろん、250万という金額は一番高い場合の話ですから、この最初の品物がお客様の手に渡った時には180万に落ち着いたわけですが、それでも、一台の利益が130万上がりました。そして、この初めての仕事では、その利益から税金を差し引いて、私の手元には50万の報酬が送られて来たのです。

 

それから何台このクレデンザを売ったか分かりません。とにかくよく売れたのです。その内、最初500ドルだった相場が、私があまりにも買い捲るものだからじわじわと上がり始めました。500ドルが800ドルになり、800ドルが1200ドルにり、1200ドルが1800ドルになり、2500ドル、3000ドルと高騰して行きました。

 

それでも、日本国内価格との価格差は大きく、情報のない時代でしたから十分に利益を上げる事が出来たのです。

 

また、上記以外にも、一台1000万クラスの自動演奏ピアノを400万で仕入れて600万の利益を上げたり、1500万の自動演奏ヴァイオリンを500万で仕入れて1000万の利益を出した事もありました。

 

しかし、これはどちらかというと小さな商売で、大きなものでは海外のコレクターが集めたコレクションをまとめて日本やアメリカの美術館や博物館へ仲介する仕事などもありました。この仕事は、仲介手数料として、売り側か買い側から10%〜20%の手数料を受け取るというもので、一番大きなケースでは、当時一回で300万ドルの仲介をした事もあります。

 

更にこうした事業は、アメリカ国内でのお客様に対して行ったりしていたので、実際は日本だけでなく、アメリカの国内でも仕事をしていた事になります。

 

この時期は情報がお金でしたので、とにかく世界中を駆け巡って、コレクターとのコネクション形成に力を注ぎました。当時はまだバブル経済が破綻した後とはいえ、ジャパンマネーに対する神話は根強く残っていましたから、日本のバイヤーである私のところには、沢山のオファーがやってきていました。そんな当時は主にアメリカ以外ではイギリス、スイス、ドイツを巡っていました。特に、蓄音機などの出物が多いイギリスには一月に2度、3度と渡英した事もありました。

 

あまりに数多く行ったり来たりを繰り返すものですから、ある日ボストンへ帰ってくる際の入国審査で、学生の分際で何をロンドンに何度も往復しているのだ?と怪しがられ、別室で随分と細かく調べられた事もありました。

 

そんなロンドンでは、ル・メリディアンのスイートに滞在し、リムジンをチャーターして買い付けに回りました。業者のポルシェを借りてイギリスの地方を回った事もあります(右ハンドルなのに感動したのを覚えています)

 

目的は全てメカニカルな骨董品。そのおかげもあり、いつの間にかアメリカとイギリスのオークションや業者の間では、オルゴールや蓄音機、自動演奏楽器の日本人バイヤーとして、ちょっとばかり有名人になっていました。

 
一台売れば何百万単位でお金が入ってくるような仕事でしたので、金銭感覚も麻痺していきます。連日のように授業をさぼってゴルフ三昧、その後は、高級なレストランやバーで飲み明かすという日々が続きました。また、私の同級生で日本人は皆お金持ちの家柄が多かったので、愛車はベンツやアルファロメオ、更にはボルシェなんかに乗って通学しているような時代でした。


こうした体験を通じて、私は自分自身に対する自信と海外での暮らしがある意味当たり前になり始めていったのです。





Copyright © 2014 ★カリブ海カンクン徒然日記★ All Rights Reserved.